書きたい
- 2017年12月2日
- 読了時間: 3分
発信のツールがFacebook,、Twitterと多様化しているうえに(インスタはアカウントあるけど幽霊)、日本での活動はお休み中のためこの日本語のサイトで宣伝するモチベーションもあがりにくいということで本当に久しぶりにログインしました。なんだか無性に日本語の文章が書きたくなって。
いま普段の生活は学校も仕事も友達もフランス語とはいえ、ネットを見るときは8割方日本語のものを見ているし、日本の家族や友人とも何かしら毎日のように連絡をとっているし、何より、フランス語で話すときもたいてい(よくないなと思いつつ)日本語で組み立てた文を仏訳している状態で、特に今さら日本語が恋しいというわけではないのだけれど…
書きたいというより、何かについて自説を述べたい!という欲求。
「自分の知らないことについても一家言をもっている」というのがパリジャンの特徴らしいですが、私の周りの友人はわりとパリ生まれパリ育ちの典型的パリジャン/パリジェンヌが多くて、みんな何についてでもそれはそれはよく喋ります。フランスに着いたときよりはずいぶん、ナチュラルスピードの会話でも中身はわかるようになったけれど、そこで自分の意見を開陳するのはなかなか大変。自分のよく知らないことには一家言をもっていないジャポネーズなわたくしは自分の意見を組み立てるまでに時間がかかるし、日本語で考えた意見を仏訳するのにまた時間がかかるし、文を構築している間に話題が変わってるし、ということでソワレの間じゅう笑顔で座っているという状態からなかなか脱出できないのであります。そして元来おしゃべりな大澤にとってはかなりフラストレーションがたまるのであります。
でも面白いのは、「自分の述べたいこと」「自分は何かを述べたいということ」がはっきりしていれば、その欲求が助けになって語学が上達しそうなものなのに、笑顔で人の会話を眺めて時間を過ごさざるを得ない状況に慣れると、本当に自分に言いたいことがあるのだったかどうだかよくわからなくなって、ものすごくシンプルな頭の人間になったような気がしてくるということ。会話に加わる努力が足りなくて諦めていると言われればそれまでなのかも知れないけれど、母国語での会話では、「思考して作文して発言する」というベクトルだけではなくて、自分が発する言葉に助けられて思考しているのだなぁと感じます。
20年以上フランスで暮らしているドイツ人の同僚はいまやフランス語ペラペラで二人の息子ともフランス語で話しているくらいだけれど(息子たちの父親もドイツ人なのに)、フランスに来てフランス語を使って働き始めたときは、母国語に比べて圧倒的にボキャブラリーが減るわ、言いたいことが思ったように言えないわで、自分が完全にバカになったような気がしたと言っていました。私の悪戦苦闘を見て「私も通って来た道、思い出すわー、がんばってね、7〜8年経った頃にようやく一日の終わりに疲れなくなった」とのこと。先は長いけどがんばろう。。
結局自分が何について自説を述べたかったのかわからないけれど、とりあえず今日のところは書く欲求が満たされたのでよしとします。おやすみなさい






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